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1、住民の意見が無視され続けて起こった陥没事故
調布市の外環道トンネル工事が行われている地域で陥没事故が起こってから、今日でちょうど1年となる。
今月上旬、【公共事業と生活10】で記した若葉の森実習を実施した。
このとき、トンネル工事によるおおきな影響を被られたKさんがお話をしてくださったのだけれども、開口一番のお言葉が、今も忘れられない。
「私たちからすれば、ほれみたことかという感じ。ずっと危ないと言い続けてきたのに。」
【公共事業と生活2】で添付した意見陳述書のとおり、地域の方がたは、外環トンネル工事がいかに危険か、独自に調査した科学的なデータを加味しつつ、国土交通省に訴え続けてきた。
でも工事が認可され、ボーリング調査が不十分なまま工事が強行され、陥没事故が起こった。
少なくとも、住民の意見を十分にくみ取っていれば、あるいは、ドイツのように、計画段階から住民も参画できていれば、今回の事故は起こらなかったにちがいない。
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2、地域の方がたの無念
そうした細心の注意を払わずに事故を起こしてしまった事業者側が、すなわち加害者の側が、個別補償にしか応じないと頑なに言い続けている。集団での保障の請求を認めようとしない。
たとえば、詐欺を働いた企業や団体の側が、被害者にたいし「被害者の会をつくるのは許しません、保障は個別にしか応じません!」と言ったらどうなるだろう?
とたんに、マスコミの餌食になるに違いない。
でも、今回の陥没事故では、そうした加害者側の非倫理的な姿勢が野放しにされている。そして、個別補償により、地域のコミュニティーが破壊されていっている。
「そこもあそこも、みんな引っ越していかれました。せっかく築いてきたコミュニティーもボロボロです。」
そう教えてくださったKさんの奥様は、いつまた崩れるかもわからない土地の上に住み続けることができなくなり、よそでの生活を余儀なくされている。
ずっと行政によって無視され続けた自分たちの警鐘が現実のものとなり、自宅での平穏な生活と、地域でのご近所づきあいが破壊された悔しさ。にもかかわらず、そんな自分たちの状況に寄り添おうとしない加害者の姿勢への怒り。
被害に遭われた地域の方がたの、そうした気持ちを思うと、いたたまれなくなる。
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3、法的根拠がなくなった
さらに見逃してはいけない問題は、陥没事故が起こってしまった以上、外環道トンネル工事を続けるための法的根拠がなくなったという点だ。
民法では、ある土地の地権者は、自分の土地の地下についても、どこまでも侵害されない権利をもっている。
ところが大深度地下法は、40メートル以深の地下は、地上には一切影響がないのだから、地権者に許可を得ることなく、用地を買収することもせず公共事業に使ってもいいのだ!という理屈で「規制緩和」された。
でも、今回の事故で、地上にまったく問題がないのだから40メートル以深の地下は地権者に関係なく掘ってもよい、という法の前提が崩れた。つまり、工事の認可がおりたそもそもの法的根拠がなくなってしまったのだ。
だから、法治国家であるならば、大深度地下法のこの矛盾が解消されない限り、工事の再開はありえない。
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4、恣意的な数値
そもそも、40メートルという数字には科学的な根拠がない、という大問題も残ったままだ。
譲りに譲って、ボーリング調査をどのポイントでもきちんと行って、そのつど安全だと推定される深さを決めないと工事をしてはならない、と決められているならまだ理解はできる。
でも、大深度地下法では40メートル以深なら問題ないと一律で決められている。
しかし、地下の中身は、地層を形成してきたそれまでの歴史によって多様な様相を見せているはずだから、そんな一律の条件があてはまるわけがない。
素人の私が考えたって、そんなことくらい理解できる。
それなのに、科学的根拠のない数値が独り歩きしているということは、〈もしかして、トンネルを掘りやすい深さだったから40メートルに設定されたのでは?〉とすら勘繰りたくなってしまう。
それくらい、科学的な根拠が議論された形跡がない。
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5、同じ過ちを繰りかえさないために
このように、科学的な議論の軽視された結果おこった悲劇は、今回の陥没事故だけではない。
福島第一原発事故にまでつながった原子力政策もまた、科学的な議論が軽視され、安全が強調され続けた結果おこったものだった。その結果、多くの人びとが故郷を失った。
いままさに続いている新型コロナウイルスのパンデミックもまた、科学的な議論がないがしろにされ、いつでもどこでも検査を受けられるという世界共通の体制が確立されないまま、医療の現場や保健所に負荷をかけ続け、多くの助かるはずの〈いのち〉が失われた。
科学的な根拠に基づく対策を立てていこうとする矜持がなさすぎるのに加え、住民の声を聴き、時間をかけて最善の策を議論しようという姿勢もない。
その結果、いつも犠牲になるのは私たち一般市民だ。
もしも日本が独裁国家だというのなら、こうしたやり方が続くのもまだわかる。
でも、日本は戦後ずっと自由民主主義国家であり続けたはずである。
そうであるなら、法的根拠もなくなった以上、外環道の(そしてリニア新幹線の)トンネル工事は止まらないとおかしい。
民主国家で、同じような過ちが繰り返され、同じように悲しむ被害者が出ていいはずがないのだ。