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1、公害問題に関して出される意見
私の専門は環境哲学だから、授業では公害も扱っている。
公害は、基本的に、住民の人たちや働く人たちの異変に企業や行政がいち早く耳を傾け、対処していたら、最悪な事態は防げたはずの事件ばかりだ。
だから、責任って何なのだろう、どうやったら防げたのだろう、という難題について、受講してくれる学生のみなさんと考えている。
その際、かならず「仕方がなかったのではないか」という意見が一定程度の割合で出てくる。
その割合は、受講生の4分の1から3分の1くらいかな、という感じだ。
いきすぎた経済活動のために、いのちを閉ざさざるを得ない状況に追い込まれた人たちの無念は重々承知しているけれども「経済成長のためには仕方のない犠牲だったのではないか」というのが、そうした意見の概要だ。
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2、「仕方ない論」
この意見は、私が弊ブログ記事【映画『天気の子鑑賞記』11】で書いた、あの「仕方ない論」のひとつといえるだろう。
今回、私が注目している調布市の外環トンネル陥没事故問題も、もしかしたら、この「仕方ない論」の立場に立つ方が、けっこうおられるのかもしれない。
「経済成長のための公共事業なら、一部の人が移住せざるを得なくなるのもやむを得ない。」
「多数の人びとの便利さのためなら、少数の人びとの犠牲は仕方がない。」
こういった声が聞こえてきそうだ。そして、だからこそ、「反対したって意味がない」という意見もありうるかもしれない。
でも、こうした「仕方ない論」から反対する方たちを批難するのは、いくつかの視点からみて、けっして生産的とはいえない。
今日からは、なぜそう言えるのか、何回かにわたって考えてみたい。
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3、世代間公平負担の問題
まず、公共事業を大々的に実施したからといって、経済成長するとは限らない。
むしろ、いろいろな問題さえある。
第1に、以前も記したことだけれども、公共事業のための借金が可能なのは「世代間公平負担」という考え方があるからだ。おさらいすると、世代間公平負担とは、まだ生まれてきていない世代であっても、公共事業によってつくられる道路や橋や空港や港などを使って利便性を得られるのだから、私たちと同様に借金を背負ってもらおう、という考え方だ。
この考え方は、端的に言って問題ありありである。
日本経済が右肩上がりのときならいざ知らず、これからどんどん少子化になって、人口も減って、国の借金を肩代わりできる国民はどんどん少なくなっていく。
しかも、実際に自動車の保有台数や総走行距離数が減っている現状で、将来世代がいまの世代と同じくらいの利便性を享受できるかどうか、費用対効果からみてもかなり疑問だといっていい。
それにもかかわらず、将来世代には「おかしい」と主張する権利が担保されていないのだ。
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4、巨大公共事業が経済成長に寄与するとは限らない!
それだけではない。第2に、公共事業をいくら実施したって、現実の問題として日本経済は成長していない。否、むしろGDPは下がり続け、1人当たりGDPも、かつては世界3位まで行ったのに、いまでは世界20位前後をうろうろしている。
公共投資をインフラ整備にそそぐ時代はとっくに終わっている。むしろいまは、国際競争力を高める分野に投資すべき時だ。それなのに、1980年代末、インフラ整備に600兆円注ぐとアメリカと約束してしまったものだから、いまだに成長が期待される分野への投資が十分なされずにいる。
その結果が、デフレの20年と、世帯所得の低下だ。
世界は、イギリスを筆頭に、世帯所得が2倍近い伸びを見せているにもかかわらず。
こうしたデータをきちんとひもとけば、将来世代に多大な借金を残すかもしれず、さらに、経済成長にとっての意味をなしていない公共政策を「経済成長のために」と言って支持し、公共事業の問題点を指摘する方たちの苦境を顧みない姿勢は、科学的な態度だとは到底いえない。
ちなみに、橋山禮治郎さんの『必要か、リニア新幹線』(岩波書店・2011年刊)や『リニア新幹線巨大プロジェクトの「真実」』(集英社新書・2014)などの御著書は、大規模公共事業がいかにおおきな負債となって私たちにのしかかってきているか、という実例がたくさん載っているので、おススメである。