~~~~~
1、赤ちゃん、無事に救出!
振替休日だった先週木曜日の朝。テレビ朝日の『グッドモーニング』でショッキングな映像が流れた。アメリカで、18歳の女性が、生まれたばかりで臍の緒がついている赤ちゃんをゴミ箱に投げ入れたというのだ。
彼女が放り投げているのは黒いゴミ袋だから、一見すると赤ちゃんかどうかはわからない。
でも、それからおよそ6時間後。赤ちゃんは、かすかな泣き声を聞いて不審に思った人たちにより救助され、いのちに別状はなかったという。
〈赤ちゃんが助かって、ほんとうによかった!〉
かつての私なら、こういうネグレクトのニュースを見るたび、そう安堵すると同時に、「なんてひどいことを!」と、テレビ画面に映し出される母親・父親に怒りをぶつけてしまっていた。
でもいまでは、そんな怒りに任せた感情は湧かず、いつも複雑な気持ちになる。そうなったのは、杉山春さんの『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』(朝日新書、2017年刊)という本を読んでからである。
◇◆◇◆◇
2、虐待する親は鬼なのか?
この本は、ほんとうに衝撃的だった。自分の至らない考え方が180度転換させられた。
虐待自体は、たしかに許されることではないし、その結果としてこどもの尊いいのちが失われたのなら、相応の罰を受けないといけない。それが話の前提ではあるけれども、虐待事件の背景について入念に調査した杉山さんは、実際に事件を起こした父親、母親の多くは、なんとかこどものためにふつうの暮らしを維持しようと努めてきた場合が多い、ということが分かったというのだ。
たとえば、軽度の知的障がいをもっている料理のできない父親が離婚をしたとすると、こどもの食事だけは何としても用意しようとする。でも、こどもとどう接していいかわからないし、職を失ってお金がなくなったりしてくると、食事も用意できなくなるから、ネグレクトに限りなく近い状態になってしまう。
ほかにも、なんらかのきっかけで、父親・母親自身が幼少期に受けた虐待が頭のなかでフラッシュバックしてしまうと、こどもを可愛がれなくなってしまう。
だから、虐待事件の加害者の多くが、けっして最初からひどい親だったというわけではないのだ。
◇◆◇◆◇
3、社会規範が追い込む親と子
杉山さんは、こうした虐待を生み出す背景に日本社会のある規範が関係していると指摘する。
「私たちの社会は、母なるものは子どもを育てなければならない、という規範がこの上もなく強い。母であることができないときには、できない自分を隠してわが子とひきこもる。ときには子どもを置いて逃げ出す。」(杉山2017、85頁)
ほんとうなら、幼少期に虐待を受けたり軽度の障がいがあったりし、その時点で保護されるべき対象であったはずの人が、父親、母親になり、頑張って子育てしていても、なにかの拍子にふつうの暮らしができなくなる。でも、社会規範が邪魔をして、誰にも相談できない。
「困難な生い立ちを抱えている者は、さらなる困難を抱えてしまう。さまざまなことを人と共有できなくさせ、周囲から自分自身を隠してしまう。病理的なメカニズムが病的な孤立を呼び起こすのだ。」(杉山2017、75頁)
こうして、社会規範が、幼少期の問題を抱えた親を追い込み、結果としてこどものいのちまで追い込んでしまう。ここには、社会規範を発端とした抑圧移譲の論理が作用している。
にもかかわらず、こうした虐待事件の裁判では「多様なハンディキャップを負った人たちの困難を、個人の責任にのみ帰した、国として無責任な判決文」が出されてしまうと杉山さんは嘆いている(杉山2017、67頁)。
◇◆◇◆◇
4、次へつながらない報道
視聴者向けに、ひどい父親像・母親像をつくり、虐待事件をセンセーショナルに報道するマスメディアもまた、そうした流れに一役も二役も買っている。
でも、もしも、社会的なサポートが充実していたら、あるいは、社会的な規範が陰に陽に押し付けられ、苦境に立たされている親子が声をあげられないという状況がなかったら、問題は起きなかったかもしれないのだ。
そのような現実を知ってから、テレビでバッシングされている「ひどい」父親や母親に怒りをぶつけるだけでは何も変わらない、と悟った。そして、怒りをぶつけていたかつての自分は、一面的な見方しかできていなかったのだと反省させられた。
でも、虐待事件の報道では、こうした背景が報じられることはない。VTRでは親のひどさが強調され、コメンテーターも「規範」から外れた親のひどさを批難するだけで終わってしまう。
だから、次へつながらない。
息をひそめて暮らしているかもしれない親とこどもが、「助けて」と声をあげられるようにならない。
結果、いま苦しんでいる親は、規範をおしつけてくる社会にますます押しつぶされ、こどももまた、そんな親からの抑圧にさらされるようになっていく・・・。
◇◆◇◆◇
5、不寛容な社会へ向かうのか? それとも・・・
ちなみに『グッドモーニング』の赤ちゃん投棄の報道では、女性の名前も出ていた。でも、彼女はまだ18歳。もしこれが国内の事件だったら、名前は出されていなかっただろう。
でも、日本でも、もうすぐ18歳が成人の年齢になる。
そのあと、同じような事件が日本でも起こったら、マスメディアはどう報道するのだろう?
少年法の理念からいえば、まだ更生が期待される年齢でもあり、グレーゾーンだ。
でも、私は想像してしまう。たぶん、いまのままでは、18~19歳の親が虐待事件を起こすたび、名前を出してもいいのではという方向に流れていくのではないか、と。
それは、日本社会が、いろんな問題が起こるたび、背景を探ることなく、表面的に捉えて批難・中傷をし、留飲を飲む不寛容な社会になっているような気がするからだ。
でも、それでは、杉山さんが指摘する社会に埋もれた家族の問題は解決しないし、苦しい状況にある親と子がますます声をあげづらくなってしまう。
できうるならば、そんな不寛容な社会への度合いは、これ以上もう深まらないでほしい。
いま苦しんでいる親とこどもに目が向く、寛容な社会になってほしい。
ひどい虐待事件の報道をみて、加害者を袋叩きにし、ただたんに留飲を下げているだけでは、同じような事件を発生させない対策だって、たてられるはずがないのだから。そうしたら、またこどもの尊いいのちが、失われることにもなりかねないのだから。