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今年度お二人目のレポートも、「哲学」の科学的であることに関するBさんの考察です。
Bさんは、大学で行う実験について、決められた枠のなかで考えてしまい、それでよしとしていないか、ほんらいは本当にそれで正しいのか常に疑ってみる必要があるのではないか、それがひいてはおおきな発見へとつながるのではないか、と指摘します。
しかし、科学には、人びとのいのちの危機に直結する可能性のある結末も生みだし得ます。それゆえBさんは、もしも科学的な知見が人間のいのちにとって危険だとわかったら、どんな尺度よりもまず道徳が優先されるべきだと指摘します。
新型コロナウイルスのパンデミック下で、いろいろなことが起こっているいま、Bさんの指摘は心に突き刺さります。みなさま、ぜひご覧ください。
※ご本人から許可を頂いて掲載しております。Bさんにおかれましては、掲載すべき時期が半年ほど遅れてしまいましたこと、ここに深くお詫び申し上げます。また適宜段落を追加いたしました。ご了承ください。
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〇タイトル「研究者として身に付けたい懐疑と反省」
Bさん
私は将来腸内細菌の研究者になりたいと思っている。その上で、研究者になるための心得として身に付けるべき、物事を科学的に見るための視点を述べたい。大切な視点は大きく二つあると考える。
まず、当たり前を当たり前としない視点である。これまで授業で学んできた通り、多くの人に信じられてきた説でさえパラダイムの転換は起こりうるため、今常識とされている事柄・当たり前に使われている考え方に対して疑いを持たずに正しいものとするのは危険であり、広く正しいとされているからといってその常識や法則に反する答えを出すことを恐れない姿勢が大切である。
私が普段行っている学生実験には必ず答えがあり、レポートを書くときも過去の研究から「この実験の正しい結果は何か」を調べて自分の出した結果と照らし合わせてその違いを考察している。また、使う試薬の分量や組み合わせも決まっていて「この操作で使う試薬の組み合わせは今回の実験のどのような結果を作り出すのに寄与しているのだろうか」という事を調べて書いている。これは演繹的な考えである。しかし、本来の研究というのは知りたい答えを求めるための実験を自分で考え、その実験が正しかった時に最も綺麗に結果が出ると予想される試薬の組み合わせも自分で考え、知りたい答えそのものかそれに近づく結果が得られるまで試行錯誤しながら実験を繰り返すものである。従って、先述のレポートを書く際に調べた疑問を書き直すと「この結果を出すためにはどのような実験をすればよいか」「この実験で結果をきれいに出すためにはどのような試薬の組み合わせにすればよいか」となる。これは帰納的に近い考え方である。
これから研究を行うに当たっては、どんなに常識とされていることであっても当たり前(=答え)はなく、全て帰納的な予測しか出来ない事を肝に銘じておかなければならない。答えの分からないものを求めるのは常に不安と隣り合わせだが、自分の実験で出た結果が過去の研究と異なるとしても学生実験の時のように過去の研究を正しいと鵜呑みにしてすぐに自分の求めた結果を失敗とせず、過去の研究にも懐疑の心を持ち、正しい手順を踏んで慎重に推論を重ね、常識や法則に反する意見でも自分がパラダイムシフトを起こすような勢いで世の中に出すというような意気込みを持って研究をすることが大切なのではないかと考える。
二つ目は、科学は諸刃の剣であることを自覚し、反省を忘れない視点である。
科学は人々の生活を豊かにするのに欠かせない存在だが、授業で学んだ水俣病や原発事故のように危険な存在にもなりうる。科学が人間にとって危険な存在になるのを未然に防ぐために、また危険な存在になった時いち早く方向転換するために、日ごろから科学の現状に対して批判的合理主義の考え方を忘れずに反省を繰り返し、過ちを発見した場合には何物にも束縛されず道徳的な基準で物事を判断し、不利益を被る人を一人でも減らすことが大切である。
例として機能性表示食品の開発をあげる。ある会社で効能の高い機能性表示成分が新規開拓され、商品が大ヒットしたが、後の検査でその成分がごくわずかながら発がん性を有する可能性が浮上したとする。この場合、反省により発がん性の可能性が発見できているのであるからなおさら、道徳的な基準で判断して過ちを認め、すぐに販売を中止できるかどうかが科学を危険な存在にしないための鍵であると考える。会社には「わずかでも危険性がある場合は直ちに商品を自主回収し販売を中止する」という選択と「発がん性はごくわずかで、しかも可能性の段階であるから会社の利益と成分の機能性を優先して販売を継続する」という選択がある。
販売を継続する理由としては、機能性表示食品は国からの長い承認期間と多くの過程を経て安全性が認可されるのであるから安全性は担保されているという意見や、発がん性がなかった場合に研究費、国の認可試験費、自主回収や販売中止が原因で会社が大損失を被るという意見があるだろう。しかし、道徳的には「少しでも消費者に危険が及ぶ可能性がある場合は直ちに販売を中止すべき」である。実際、承認のために行われる実験では短期間しか成分の影響を観察できないため、発がん性のように症状が出る可能性が長期間にわたってあるような性質については、認可試験を通過したからといって安全性が担保されているとは言いにくい。また、この商品は大ヒット商品のため、もしその成分にわずかでも発がん性があった場合は被害者が多くなってしまう。そのため、道徳的な基準で判断して販売を中止することは科学的に考えても正しいのである。
販売を中止するにはその商品に係った様々な方面から相当な圧力がかかるが、多額の利益や体面を保つために防げる不利益をもみ消すのはおかしい考え方であり、不利益を被る人を減らすことができる好機と考えて、圧力に屈さず道徳的な考えを元に過ちを認め、正しい選択をすることが大切である。
これまで述べた姿勢を実行するのは、特に後者に関して実際にその状況に置かれた時には、とても難しいことだと思う。しかし科学を行う者として、人々を豊かにするために科学を使うために、この二つの視点を常に心に置きながら学んでいきたいと考えている。