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◆避難
77年前の今日の未明。東京の下町を中心にたくさんの焼夷弾が落とされた。
私の大叔母は、そのなかを生き延びた人である。
2005年。戦後60年目の夏に、その壮絶な体験を初めて教えてもらった。
細かいところはだいぶ忘れてしまったけれども、初めて聴いた体験談は、17年経ったいまも私の脳裏から離れずにいる。
当時、大叔母は14歳。近所には文具店を営む親戚の家族も住んでいた。
空襲警報が鳴って、文具店の親戚一同は、地下に掘ってある防空壕に避難した。
「今日はちょっと雰囲気が違うから、遠いところに逃げたほうがいいんじゃない?」
「いや、ここで大丈夫だよ。」
そんなやり取りをしたあと、大叔母の家族はガス工場に向かった。
ガス工場には、ガスタンクがある。だからほとんど避難している人はいなかったらしい。
けれども、大叔母のお父さんは、ガスタンクがもし爆撃されたとしても、ガスは地下に潜る構造になっていると知人から教えられていた。だから、広い敷地の拡がるガス工場を避難先に選んだのだ。
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◆火の粉
でも、この日の空襲は様子が違った。
燃え盛る町のほうから、ガス工場に逃げている人たちに向かって火の手が襲ってくる。それと同時に、火の粉がこれでもかというほど降りかかってくる。
徴兵されずに残っていた中高年の男性たちは、できるだけ火から遠いところに、お年寄り、女性、こどもを固まってすわらせ、そのうえに降りかかってくる火の粉を、筵などを使って払いのける。
何時間も経つと、火の粉を振り払う腕も疲れてくる。炎の威力はどんどん増し、熱風とともに押し寄せてくる。
〈もうダメか・・・。〉
みんながそう覚悟を決めかけた瞬間、風向きが変わった。
「まだいけるぞ!」
「あきらめるな、がんばれ!」
炎からの熱圧が低下して勢いづいた大叔母の父たちは、おたがいに声をかけながら、火の粉を必死に振り払った。
そして、夜が明けるころ。火の手は次第に収まっていった。
大叔母たちは助かったのだ!
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◆重い言葉
ところが、問題が起こった。必死に火の粉を振り払っていた父が、「目が見えない」のだという。
大叔母は〈お父さんの目が見えなくなったらどうしよう・・・〉と気が気ではなかったという。
幸い、その後の診察で原因が分かった。
お医者さんによると、火の粉を必死に振り払っているうちに、煤が目に入ってしまっていたのだという。そういうわけで、目を洗浄して大事に至らずにすんだ。
でも、家族と自宅付近に戻った大叔母は、茫然としてしまう。
幼少期を過ごした我が家は燃え尽きてなくなり、防空壕に避難していた文具店の親戚一同はみな、蒸し焼き状態になって亡くなっていたという。
大叔母は、大泣きせずにはいられなかった。
「たった一晩で、ひとりひとりの大事ないのちが、たくさん奪われてしまったんだよ。だからね、戦争は絶対にしてはいけないんだよ。これだけはよ~く覚えておいてね。」
真剣に語ってくれた大叔母の声が、脳裏にこだまする。
コロナがおさまったら、今度はきちんとICレコーダーをもって話を聴きに行こう!