◆順当にみるなら、監督のメッセージはやっぱり仮説A?
占い師の「ホメオスタシス」という言葉と、それを引き取ったようにも聞こえる、「水没して当たり前」というおばあさんの言葉。鑑賞記の7で「反省」と言っておきながら恐縮だけれど、監督が、現代の異常気象は、けっして人間の産業活動に由来するものではない、というメッセージを、ふたりの言葉に込めているような気がするのは、私だけだろうか。
もちろん、「ホメオスタシス」という概念が出てきたからといって、すこし慌てて穿った解釈をしすぎたかもしれない。ふつうにストーリーを振り返ったら、地球のホメオスタシスの範囲内では抑えきれないほどに、人類の産業活動が気候にまで影響を与えたからこそ、東京が異常気象に見舞われ、陽菜ちゃんが人柱にならざるを得なくなってしまったのだ、そうした人間の活動の自然環境への影響を象徴するものとして、アントロポセンという言葉が東京農工大学のパンフレットに出てきたのだ、と考えるのが、もっとも穏当な解釈だと思う。
◆天井絵と陽菜ちゃんの受難は、断絶していた?
そのようにA説の可能性を考えると、神社の天井絵と陽菜ちゃんの受難とは、おなじように人柱をたてないと収束しない事象として映し出されてはいても、その意味合いにおいて断絶があることになる。
神社の天井絵の異常気象は地球のホメオスタシスの乱れが原因だけれど、東京の異常気象のほうは人類の産業活動が引き起こした、ホメオスタシスの範囲を超え出る異常気象なのだ、という見方も可能になるからだ。
そう捉えると、監督は「それだけ近代の人類活動による環境問題は深刻なんだよ」という仮説Aのメッセージを私たちに送っている、と解釈するのが可能になる。3月26日のブログで、環境哲学の視点から、人新世の始まりをアメリカが征服されていく時期が妥当ではないかと言った手前、「監督のメッセージは仮説Aであってほしい!」という、淡い期待を込めちゃっているのだけれど。
◆陽菜ちゃんの葛藤の意味
それはさておき、もしそうした予想が的中していると仮定すると、陽菜ちゃんの、「自分は人柱に選ばれているんだ」と気づいてからのいろいろな苦悩は、地球のバイオリズムを整えるために命を捧げてきた歴代の人柱とは、一風かわった意味があったのではないか、と思えてならない。
もしも、監督がA説の立場から映画を描かれているとするなら、異常気象の原因はあくまでも近代以降の人類の活動であって、陽菜ちゃんが葛藤を抱える必然性は、まったくなかったハズだ。
それなのに、陽菜ちゃんは、相当な葛藤の末、大切な存在である帆高くん、凪くんと別れる自分の運命を受け入れているように私の目には映った。
陽菜ちゃんが自分の運命を受け入れたときの気持ちには、たぶん、誰にとっても必要とされる存在でありたい、というやさしさが一方であったんだと思う。でも、他方で、二人と離れたくないという強い思いもあったんだと思う。
だから、そのふたつの気持ちの間で引き裂かれ、ものすごい葛藤が生まれ、最後まで悩みとおすことになったのかもしれない。
でも、この解釈が合っていたとする場合、こうした葛藤は、本来なら、陽菜ちゃんに全責任を負ってもらっている私たちその他大勢の人間が感じるべきハズのものなのではないだろうか。
◆帆高くんは、陽菜ちゃんが人柱になる必要はないと気づいていた?
もしも、陽菜ちゃんがみんなの地球に対する全責任を背負って人柱になったという解釈が合っていたとするなら、陽菜ちゃんは相当にやさしい女の子だと思う。本当なら、今回の異常気象は近代化以降の人間の活動が原因であるにもかかわらず、陽菜ちゃんはいっさい人のせいにせず、運命を受け入れたのであるから。
もしかしたら、帆高くんは、この理不尽さを、無意識のうちに直感していたのかもしれない。陽菜ちゃんは救える、なぜなら、天井絵の異常気象が起こった鎌倉時代とは違い、今回の異常気象は東京に住む誰もが加害者で、陽菜ちゃんのいのちだけが求められているとは言い切れないんだから、と。
だから、帆高くんはとっさに警察の手から逃れ、ビルのうえの祠に向かって走りだせたのかも、と想像してみたりする。
ちょっと妄想が過ぎたけれど、こう考えてみると、A説もがぜん説得力を持ってくるような気がするのだ。