◆昨日の記事で今日まで持ち越した問い
それでは、昨日の続きを。非常時の支援ではなぜ、規制による統制ではなく、むしろ積極的により多くの支援をなすべきなのか?
その答えは、修士課程のときにふれた、アマルティア・センさんの思想にある。センさんの主張する正義から考えてみると、VC本部の「正義」のおかしさが、より鮮明になってくる。ということで、センさんの正義論の中身について、まずみていこう。
◆「潜在能力の自由」という考え方
センさんは、人間ならだれもが「潜在能力の自由」を担保される平等な状態こそ大事、だという。
でも、聞き慣れない「潜在能力の自由」とは、いったい何? それを解明するために、途上国で「お医者さんになりたい」と夢見る子を支援したいと思ったらどうすればいいか、という事例から考えてみよう。
もし、その子が暮らす地域が飢餓状態にあえいでいれば、栄養状態をよくするため、食糧支援(できれば地域が自立できるような営農支援)が必要になってくる。そうしないと、勉強どころではなくなってしまうからである。
ここでセンさんの考え方を参照すると、「栄養状態のいい健康な身体である」というのは、その子が医師になりたいという夢をかなえるのに必須な、最低限の「機能」だということになる。それに加え、ほかにも、「文字が書ける」とか「計算ができる」とかいった、勉強をするための「機能」も備わってはじめて、その子は、医師になるという目的の達成に近づくことができる。そういった機能を備えるためには、教育を受けられる環境の整備も必要だ。
このように、人が夢をかなえようと思ったら、それを達成するための機能が、いくつか必要になってくるとセンはいう。そして、そうした機能を組み合わせ、自らの目的を達成する能力を、センさんは「潜在能力」と呼んだ。さらにセンさんは、この潜在能力を発揮する(=潜在能力の自由)ための環境を整える支援こそ、真に必要とされるものなのだと強調した。
◆大事なのは、一人ひとりの機能の改善にあわせた財の配分
ところがセンさんは、一般的な平等論にしたがい、ただたんに財を公平に分配するだけでは、人びとの潜在能力の自由を担保する支援にはならないと批判する。センさんは、この点で、正義論の大家、故ジョン・ロールズさんと論争を交わした。そののち、ロールズさんがセンさんの意見の重要性を認めた、という事実からも、センさんの提唱する理論の意義がわかる。
そうした哲学論争の話はさておき、センさんはなぜ、一般的な平等論ではまっとうな支援ができない、と指摘したのだろうか?
ここでも、具体的な事例から考えてみたい。たとえば、障がいや病気など何らかの要因で歩けない人、歩ける人、双方いたとする。その2人に自治体が交通権の観点から自転車を配布したとしよう。すると、誰もが「いや、歩けない人には車イスでしょ!」とツッコミたくなるはずである。でも、財を公平に配分すべしという平等論では、車いすは高価だから自転車との差額分の費用を負担してもらいましょう、というお話にもなりかねない。
こういう財の配分の仕方は、センさんに言わせれば逆に不公平になってしまう。
なぜか? センさんなら、その理由をたぶん次のように言うだろう。
「どんな人であっても、差別されることなく、幸福を追求できるようにするためには、一人ひとりが自らの機能を用い、目標を達成できる(=潜在能力の自由を行使できる)環境にすることが必要でしょ? それこそ、真の平等でしょ?」
「そのためには、ひとりひとりの身体状況や社会環境に応じたきめ細かい支援が必要になるでしょ?」
「そうすると、財の配分が偏ることになるかもしれない。でも、みんながなるべく同じスタートラインに立つという意味での平等を担保するためには、そうした配分こそ必要なことでしょ?」
「ただ単に財を公平に配るだけだったら、不平等はなにも改善されないでしょ?」と。
潜在能力の自由を誰に対しても担保するには、財の配分において多寡は出る。でも、それこそが、人びとの間の身体差・環境差による凸凹をできるだけなくし、平等を実現していくためには必要なのだ。そうセンさんは言うのである。この意味での平等論は、センさんの考える正義だといっていい。(※)
◆事業者への直接補償を!
理論的な話がちょっと長くなってしまったけれど、ここで、川口VC本部の「正義」に話を戻そう。センさんの正義論に照らして考えると、それは、実際には不平等をもたらしてしまう一般的な平等論に立脚していたのがわかる。それゆえ、本当に支援が必要な人に物資が渡らない状況に陥り、被災地がかえって不公平な状態に陥っていたのは、昨日記した通りである。
ではなぜ、事業者への直接補償は現実的でない、という政府の見解と共通するものとして、川口VCのこの「正義」がフラッシュバックしたのだろうか?
思考回路を整理してみると、その理由は次のようになる。政府の立場は、「だれかに補償がいきわたらず不公平になるなら、この際、飲食業者へも納入業者へも配らなければいいんだ!」という意味で、一般的な平等論に基づく「公平」な考え方である。その点で、川口VCが振りかざしていた一般的な平等論と一致する。だから、そのときの苦い思い出が、突然フラッシュバックしてきたらしい。
しかし、川口VCのやり方は、部分的ではあっても物資を配っていた分だけ、まだましである。政府の考え方は、それよりさらに後退している。不公平になるならいっさい補償しなくてよい、というわけだから・・・。
こう考えてくると、今回の対策はやっぱりおかしい。センさんの、誰に対しても「潜在能力の自由」を!という正義論に照らしてみるなら、そして、お兄ちゃんの「3を4にする理論」に照らしてみるなら、飲食業者も納入業者も、それ以外の分野で営業自粛を要請される業者も、農家も漁師も、みんな、損害の程度に応じて、それぞれの機能を回復させるのに見合った補償が、できうる限りなされるべきだと思うのだ。
◆市民一人一人にも直接給付を!
さらに、一般の労働者へも、直接給付を早急に実施すべきだと思う。
非正規雇用で働く人たちは、すでに収入が多く失われている。正規職だったのに解雇された人も大勢いる。6月からの支給では遅すぎる。しかも、基準が厳しくて、もらえるかどうかもわからない。
先行きが極度に不透明になると、誰だってみんな不安になる。希望が持てなくなる。以前記したように、不安は人間の良心を後退させてしまう。海外でのDVの発生率上昇が話題になっていたけど、日本でも、収入の低下が要因の夫婦げんかで、奥様が亡くなるという痛ましい事件が発生してしまった。このニュースを聞いたとき、ついに起こってしまったか、とショックで震えた。
内定取り消しになった人たちも大勢いる。フリーランスの労働者も大勢いる。多くの評論家や政治家が必要だというように、多くの国で採用されている、一人ひとりへの無条件での直接給付を、小切手の郵送により早急に行ってほしい。そうしないと、いのちをつなげなくなる人が、たくさん出てきてしまうかもしれない。そうなってからでは遅いのだ。
収入が安定している人たちからは、年末調整や確定申告で返してもらえばいい。そうすれば、センさんの主張する平等は、部分的に達成できる。部分的だというのは、それでも生活が苦しい人たちへのさらなる補償や給付を実施しなければ、センさんの理想とする状況からは程遠いためである。
いまはもう、人間として生きていくための機能が失われかねず、それゆえに絶望の淵に立たされる人が大勢出てもおかしくない、瀬戸際の状況なのだから。
【注】
(※)国連開発計画の「持続可能な開発目標(SDGs)」を考えた中心的メンバーでもあるセンさんのこうした主張をみると、SDGsの重要な目標として貧困の克服があげられている理由がよくわかる。
2020年4月12日修正(①流れの良くない文章を注に移動①一部に文字を追加)