◆帆高くんを邪魔する論理=「仕方ない論」
妄想ついでに、もう少し考えてみた。陽菜ちゃんの人柱という隠された役割を知ってしまったら、たいていの人たちは、天気の回復を願い、帆高くんを止めようとするだろう。それはなにも町ゆく人たちだけではない。夏がとつぜん真冬になって、長い雨が続いて都心の大部分が水没し、経済活動にも深刻な影響を与えている状況では、陽菜ちゃんの秘密を知ってしまったら、経済界の重鎮も政治家も黙ってはいないだろう。
でも、そのように陽菜ちゃんのいのちを人柱として生贄にする方向に世間が動くとき、帆高くんを邪魔しようとする人たちは、自分の行為を、何と言って正当化するのだろう?
もしかしたら、こう言うかもしれない。
「みんなの生活といのちが守れるのなら、一人の人間の犠牲なんて仕方ないじゃん!」
これだとちょっと長いので、ここからは、こうした発想を「仕方ない論」と記したい。
◆「仕方ない論」と親和性のある哲学上の考え方
すこし難しい話になって恐縮だけれど、仕方ない論は、哲学のなかの、ひとつのおおきな思潮である功利主義と極めて近い考え方である。
功利主義は、ある選択をした結果の幸福度・満足度が大きければ大きいほどよい、という価値に重きを置く。だから、なにかおおきな問題が起こったとき、たとえ一部の犠牲をともなう選択であっても、誰ひとり犠牲にしなかった場合と比べ、結果としてより多くの人たちの幸福度・満足度を得られるのだとしたら「そのほうがいいじゃん!」という判断になる。
この、「みんなの幸せのためなら一部の犠牲も仕方ない」という発想は、けっして侮れない力を持っている。このブログを見てくださっている方の中でも〈この考え方のどこが悪いの?〉と疑問に思われる方は多いかもしれない。
◆少数派への弾圧を正当化しかねない論理
でも、この「仕方がない論」、帆高くんと陽菜ちゃんのラブストーリー的にいうと、実はとても怖い結果を招きかねない考え方なのである。
きのうも書いたけれど、帆高くんが走っている理由を知らないから、町ゆく人たちは帆高くんを見て笑っていられる。無関心でいられる。でも、もし帆高くんの走っている理由を知っていたら、みんな、獲物を狙うオオカミのように、集団で、そして全力で、帆高くんをつぶしにくるかもしれない。
このとき、町の人たちは、たんなる日常における人びとの集合から、特定の目的をもった群衆へと変化する。そうなったら、夏実さんや須賀さんがいくら止めに入ったとしても、一瞬で吹き飛ばされてしまうだろう。経済界の重鎮や政治家が知ってしまったら、実力組織までもが参入してくるだろうから、止めるのはなおさら難しくなるだろう。
◆最悪の結末/人びとの忘却
そうなると、陽菜ちゃんのいのちは人柱として閉ざされてしまうだろうし、帆高くんはずっと後悔して生きていかなければならなくなる。けれど、ふたりをそんな状況に追いやったあとでも、陽菜ちゃんを人柱にした大多数の人々は、時間が経てば経つほど、そんな犠牲や苦悩があったかもしれないことなど完全に忘却し、何事もなかったかのように生きていくだろう。
だから、多くの人が陽菜ちゃんの秘密を知った時点で、『天気の子』の脚本は転換を迫られ、ラブストーリーではなくなる。ふたりの絶望の結末と、それとは対照的に、晴天を取り戻して明るい世間の雰囲気とがスクリーンに映し出される結果となり、そのコントラストのはざまで、私たちは心を掻きむしられることになってしまうだろう。
「仕方ない」論は、このように、ごく一部の人に不幸をもたらしているのに、そうした事実に対する感度がすこぶる鈍いという怖い側面をもっている。
そういうわけで、私はあまり仕方ない論が好きになれない。