◆祠の警備員さんの葛藤
そんな、「よい天気」を維持するうえで大事な祠。それを維持するためには、足元の廃ビルが補強され、祠の前に警備員さんも常駐することになるのだろう。帆高くんをはじめ、誰かが陽菜ちゃんを救出しよう!と思い立ったら、みんなの「よい天気」が奪われてしまうことになるのだから。
ただし、祠の警備をさせられる人だけは、「仕方ないじゃん!」といって済ませた大多数の人たちの意識とは、ちょっと違った感覚に陥ることになるかもしれない。
祠を毎日みるたび、世間からバッシングされて苦悩にさいなまれた若い二人の人間がいたことが脳裏に浮かんで、何の不自由もないまま二人の苦悩を忘却していく世間との温度差を、考え続けざるをえない立場にある。そして、あるとき、ふと「本当に自分はこのままでいいのか」といたたまれなくなり、生き方について自問自答され始めるかもしれない。
もし、警備員さんのこの葛藤が、どんなことがあっても、自分たちの幸せのためだけに人を犠牲にしてはいけないのでは、という思いからきているとしよう。実は、それは、誰もが知ってる大哲学者、イマニュエル・カントが提起した考え方に沿った葛藤が、心のなかで生じているとみることもできる。
◆自分のモットーを鍛え直すのが、道徳的な生き方
ちょっと難しい話でまたもや恐縮だけれど、どういうことか説明してみたい。
私たち人間は、生きていればいろんな場面で判断を迫られる。そんなとき、その人なりのモットー(哲学用語で「格率」という)に基づいて行為の選択を行っている。でも、人間は神ではないから、とうぜん選択を間違えることだってある。人間は、そうした間違いからモットーを鍛え直し、次の選択の場面ではよりよい判断をしていくようになるはずだ・・・カントはそう考えた。
でも、このとき、どうやって人間はモットーを鍛え直せばいいのだろう? カントは、自分のモットーが、誰もが受け入れてくれそうな道徳法則に近づいていくよう努力すればいいんだよ、という(※1)。
「いや、ちょっと待って、そうはいっても、もうちょっと明確な基準を教えてくれない?」とみなさんツッコミたくなるだろう。カントは、その辺のこともちゃんとわかっていて、ある指針を残してくれている。人は誰だって、その人なりにやりたいことや夢、つまり目的をもって生きている。だから、みんな、他者と接するときは、相手のことを、その人なりの目的をもった大事な存在として尊重しないといけないよ、けっして、相手を奴隷のように、たんなる手段としてのみ扱ってはいけないよ、とカントはいうのである(※2)。
◆カントのいう道徳的な人間のあり方からきている、警備員さんの葛藤
これまた難しい言葉で恐縮だけれど、※1は、カントのいう定言命法の第1法則、※2は第2法則という。このふたつの法則に適合する道徳として、カントは、人のいのちを奪っちゃいけないよね(汝、人を殺すことなかれ)、嘘はついちゃいけないよね(汝、嘘をつくことなかれ)、というふたつの命題を筆頭にあげている。なぜならこれらの道徳は、誰にでも受け入れてもらえそうだし、他者を尊重していることにもなるからだ。だったらこのふたつの命題は、私たちが生きる上で鍛え直していくモットーの中身を、なるべくそこに近づけるべき道徳だといえるよね、とカントはいうわけだ。
すると、警備員さんの葛藤も、「世間で暮らす大多数の人たちの幸せは、陽菜ちゃんひとりの犠牲によって成り立っているわけだけど、それって道徳的にみて本当にいいことなのだろうか?」という心の動きから生じていると推測される。つまり、〈陽菜ちゃんを自分たちの奴隷にしてしまったんじゃない? しかも、いのちまで奪っちゃったんじゃない?〉という葛藤が生じていると思われるのだ。
◆いのちを絶対大事にする帆高くん
カントのこうした考え方に照らすと、帆高くんもまた、どんな理由があっても、陽菜ちゃんのいのちが奪われていいわけがないと考えている点で、そして、まるでその他大勢の奴隷になるような人柱になる状況がいいわけがないと(無意識のうちに?)思って行動している点で、カントが正当だとみる道徳に適った生き方をしている、と評価できる。
またしても小難しい話で恐縮だけれど、帆高くんのように、人間として守るべき道徳に従っている立場は、つまりは人間としての道徳的義務に従っている、ということになる。このような考え方を、哲学のなかでは義務論という。
ここまでくるとよくわかるのだけれど、少数の犠牲も仕方ない、結果がよければそれでいいと考える功利主義(仕方ない論)と、結果がどうあれ、誰ひとりとして犠牲にするような選択をしてはならないと考える義務論とは、たがいにとても相性の悪い、180度ちがった道徳である。なぜなら、義務論は行為前の選択における道徳を重視するのに対し、功利主義は行為後の結果における幸福度の増進を価値判断の尺度にするからだ。
帆高くんは、たとえ義務論という言葉は知らなくとも、この立場で陽菜ちゃんの救出に全身全霊を注いでいるのだと捉えることができる。だから私は、そんな帆高くんがものすごく道徳性の高い人で素敵だと思う。カッコイイと思う。そして、さらに別の理由から見ても、すごいと思う。
ちょっと長くなってしまったので、その理由については、明日、考えることにしよう。