◆忘れられない虐殺事件
18日のブログで、私は、帆高くんの行動はすごいと思うと書いた。なぜなら、誰かを救うために義務論の立場を貫き通そうとすると、ものすごく高い壁が立ちはだかってくるからである。
2014年のこと。中国が南シナ海で石油の採掘をはじめたのがきっかけで、ベトナムで反中感情が高まっていた。このとき、信じられないことが起こった。なんと、ハノイで起こった反中デモで、暴徒化したベトナム人による中国人の虐殺が起こったのである(犠牲者中国人16名、ベトナム人5名)。
◆理性のある人間が「群衆」に
この事件が示しているのは、ふだん、一人ひとりは善良で判断力のある人たちでも、ある「正義」を共有し、集団となれば、その理念を実現するためなら人のいのちの強奪をも厭わない群衆と化してしまう可能性があるという、群集心理の恐ろしさである。
群衆心理学の草分け的存在であるギュスターブ・ル・ボンは、次のような名言を遺している。
「意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。」(※)
このような群集心理の恐ろしさがあるからこそ、誰もが天候と人柱との関係を知ってる状況になったら、陽菜ちゃんを守り抜こうとする帆高くんは、とても危険な状況に陥りかねないのだ。そして、須賀さんも夏美さんも。
◆もしも自分が『天気の子』の世界にいたら・・・!?
それを念頭に、もしも自分が『天気の子』の世界に居たら・・・と妄想してみた。
異常気象で、住む場所がなくなりそうな人がたくさんいて、経済もポシャってしまいそうな暗い雰囲気のなか、誰もが「陽菜ちゃんを人柱にしさえすれば、雨が上がり夏が戻ってくる」と知っている社会状況だったとしたら・・・。義務論のほうが自分の指針としてシックリきているはずの私は、はたして、線路を走っている帆高くんを見て、〈力にならなければ!〉とフン切りをつけられるだろうか?
恥ずかしながら、おそらく私は躊躇するだろう。
多くの人が帆高くんの行く手を阻もうとするのは間違いない。そんな現場で、なんとか帆高くんの進路をあけておこうと頑張ったら、暴徒と化した人々が次々に襲い掛かってくるのも間違いない。そういう殺気だった群衆が押し寄せるなかで、体を張って帆高くんを守りきれるだろうか?
はっきりいって、想像するだけで怖い。死を覚悟しなければならない、究極の選択になるだろうから。
推測だけれど、ハノイで反中デモに出くわしたベトナム人のなかでも、中国人の友達を守ろうとした人がいたのではないだろうか。だから、ベトナム人の犠牲者も出てしまったんだと思う。もしそうだとしたら、かれらはどういう思いでいのちを閉ざしていったのだろうか。
◆答えの出ない選択
もちろん、こういった危険を回避するため、傍観者に徹するという選択肢も残されている。でもそれでは、誰かが大多数の犠牲となるといういじめにも似た状況を、見てみぬふりして容認するのと同じになってしまう。帆高くんが、陽菜ちゃんが、きっと犠牲になってしまうと分かっていながら何も行動しないという選択は、とても道徳的な立場とはいえない。でも、傍観者になれば死だけは免れる。
苦しい。答えが出ない。
社会が極限の状態になっているときに道徳的であろうとするのは、これほどまでに難しい。
帆高くんの激走と、それを見る人々の白い目を思い返すたび、チキンな自分のハートが抉られるような、こうした妄想ばかりが浮かんでくるのだった。
【注】
(※)ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫訳『群集心理』講談社学術文庫、1993年(原著の初版は1895年)、35頁。