※仕事の合間に時間を見つけてブログを綴るのは、私のような筆不精にとってはけっこうしんどい作業です。そこで、忙しいときには、時折、過去に書いた日記をアップしていきます。始めて2日目でそういう事態になり恐縮ですが、今日アップしたのは、2013年6月17日につけた、育児関連の日記です。育児って「児を育てる」って書きますけど、実際には、こどもの成長へのかかわりを通して、自分が人間として育てられているんだな、と実感しています。そこで、いわゆる育児のカテゴリー名を「こどもに育てられている自分(親育ち)」としました。よろしければご笑覧ください。
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うちには、よくお座敷のある食堂でみかけるかたちの、食事どきに子どもが座る小さないすが3つある。そのうちのひとつが、着替え専用になっている自宅の部屋で、放置されたままになっていた。東海地震が怖いから、衣装用の家具はひと部屋に集中して置いているのだ。だから、洗濯物を畳んだり、アイロンをかけたりという衣類全般の家事は、その部屋で行うのが習慣となっている。
今朝、スラックスのしわがひどかったもので、出勤前、布当てしながらアイロンをかけた。片方の足を終わらせたとき、激痛が走った。何も履いていなかった自分の左太ももを、見事にアイロンがけしてしまったのだ。
アイロン台の横に、放置されたままの例のイスがあった。そのイスが、アイロン台の利き手側を塞いでいた。そのため、アツアツのアイロンを畳の上に置こうとして目測を誤り、イスから押し戻されたアイロンのヘリに沿った形での火傷が、太ももにできてしまったのである。
そのことに気づいた私は最初、そのイスを「お前がそこにいるからだ!」と半泣きになりながら責めた。でも、よくよく考えてみると、イスが自らの意思で動けるはずがない。かれは、誰かによって連れてこられたのだ、そう、かれを遊び道具にしていた子どもたちによって。
そうなると、昨日、遊んだあと放置していってしまった子どもたちが悪いことになる。
しかし、はたしてそう言い切るのは妥当なのだろうか?
子どもが〈遊んだものを放置したままにしてはいけない〉と心がけられるよう、日ごろから諭すことができていなかった自分こそ、実は、この激痛の原因なのではないか?
わずか3秒ほどのあいだに頭のなかをかけめぐったこういう思考の結果なのか、気付いたら「ごめん、きみのせいにして悪かった。私が悪いんです」とイスに向かって謝っている自分がいた。はたから見たら、危ない光景だけれど。
何でもそうだけど、嫌な思いをしたとき、痛い目に遭ったとき、人のせいにするのは何とも楽である。自分を優位な立場に置き、胡坐をかいていられる。楽だけれど、でも、ほとんどの場合、受けた被害の因果関係をひも解き、原因を探っていくと、やがて自分にも責任の一端があるのに気づく。
今回はイスが相手だったから、素直に謝れた。だけど相手が人間だったら、そうはいかない。素直になれない自分がいる。それが家族や友達だったら、なおさらだ。そんな自分の小ささに気づいて、ますます落ち込む。
でも、そうだからこそ、生きているって面白いな、とも感じる。相手に「謝る」というコミュニケーションのなかでもなお、自分も悪かったけど・・・と人をどこかで責め続けるという、煮え切れない態度を取ってしまう自分のいたらなさを痛感することになる。きっぱりと謝ってしまえばいいのに、自分だけが悪いわけじゃないという免罪符を、相手とのやりとりの言葉のなかに見出したいという、はっきりいって相手の寛容さに甘えた態度をとってる自分がいる(※)。
でも、それを乗り越えたときの家族や友だちとの和解は、何物にも代えがたい、すがすがしい気持ちにさせてくれるし、人間関係の新しい局面が生まれることだってある。何かにつけて喧嘩していた相手が、無二の親友になったりもする。家族だったら、相手の出方はとっくに分かっていて、仲直りのための落とし所を探るのも、難しくはなくなってくる。
だから、親しい相手であればあるほど繰り広げられる、のらりくらり謝罪作戦は、面倒くさいけど、その駆け引きが生きてるって気持ちにつながって楽しいし、けっこう好きな自分がいる。だからといって、あまりやりすぎると、激怒されてしまうので要注意なのだけれども!
(※)甘えについて深堀りしたい方には、次の書籍がお薦めです!
・土居建郎(2007)『甘えの構造(増補普及版)』弘文堂
・和田秀樹(2019)『もっと楽に生きられる 甘える勇気』講談社ワイド新書