◆布マスクの思い出
小中学生のころ。我が家では、祖母が買ってきてくれる布マスクを使っていた。というより、そのころの時分は不織布マスクの存在すら知らなかった。我が家の布マスクは、洗うとどんどんほつれてきて、干して日光に照らす回数が増えるほど黄ばんでいった。それでも、祖母のもったいない精神のもと、風邪気味のときはなるべく黄ばみの少ない布マスクを厳選して装着し、登校していた。でも、中学生ともなると布マスクは小さいし、黄ばみが恥ずかしいので、できれば装着して行きたくはなかった。
そういう思い出があったものだから、配布される布マスクがまさか昔ながらの小さいものだとは思ってもいなかった。昨日も書いたとおり、政府の要請を受けて生産を始めてくださっている中小企業の布マスクが配布されるものとばかり思っていたのだ。
◆466億円の違った活用法
新型コロナウイルスとの闘いは、いのちを守るという問題にほかならない。
布マスクは、素材によっては不織布マスクよりウイルスの遮断率がそもそも低いらしい。それだけでも〈意味あるのかな?〉と思っているところに不良品のものが届いたら、なおさら不満に思うのは人情というものである。466億円もの税金を使うのなら、もっと違ったことに活用できたんじゃないか、と。
フリージャーナリストの田中龍作さんが「アベノマスクを配らずに、各都道府県に10億円ずつ配り、マスク工場を建設したらよかったのではないか」と提起されていたけど、的を射た意見だと思う(※)。2月の早い時点でそうしていれば、高値で不織布マスクが売られる闇市のような状況にはなっていなかったかもしれないし、各地域であらたな産業が勃興するきっかけになったかもしれないのだから。
◆責任を取るのは悪いことではない
だから、当然、アベノマスクにたいする批判は出てくる。マスクの購入には、声をあげる市民の納めた税金も使われているのだから、不衛生なマスクを納品した企業には、きちんと説明する責任がある。そして、国には、予算が跳ね上がった理由は何か、そもそも適切な業者選定が行われていたのか、この緊急時に優先すべき政策だったのか、情報を公開したうえで徹底的に検証をする責任がある。
こうした責任をとるのは、何も悪いことではない。過去を反省し、未来に生かす作業こそが、次に同じような事態に陥ったとき、見返されるべき材料を与えてくれるのだから、むしろ尊敬に値する行為である。しかも、いまは緊急対応をしたあと、常に迅速な形でフィードバックし、次に活かすべき事態が起こっているのだから、なおさら必要な、急を要する実践だと思う。
◆公害と瓜二つの構図
でも、政府は情報を小出しにする。企業側をかばっているようにしか見えない。そして、保護されるべき市民のあげた声は、ノイジーマイノリティーとしてしかみなされていないように映る。
これって、責任を取ろうとせず、むしろ加害側企業をかばおうとする行政から被害者が見放され、被害が拡大していったあらゆる公害の構図と、瓜二つではないだろうか? だとすると、この国は、公害被害から何も学べていなかった、ということになる。それだけではない。このまま過去の過ちから学べないままであれば、今回も同様のことが繰り返され、被害が悪化するという事態にもなりかねない。
〈どうか、そのような結果になりませんように〉と祈ることしかできない自分がもどかしい。
【注】
(※)「アベノマスクが配布され始めると「第2波マスク騒動」が起きた」『田中龍作ジャーナル』2020年4月20日記事