◆ヒトラーの野望を実現する「全権委任法」
ヒトラーが次に目指したのは、大統領緊急令といったような生ぬるい処置ではない、市民からの完全なる人権のはく奪、つまり、ワイマール憲法の実質的な停止だった。なぜなら、優秀なドイツ民族による、他国を圧倒するほどの国家をつくりあげるためには、異論を排し、誰もがドイツ民族の繁栄のためにのみ労働をし、個人の夢など諦めなければならないとヒトラーは考えていたからである。
そのために必要だったのは、憲法の「改正」だった。ヒトラーがとった手段は、ワイマール憲法にかわる法律の制定だった。それが、憲法に違反した法律を政府が出せると第2条で謳った「民族及び国家の危機を除去するための法律」、通称「全権委任法」である。全権委任法が通りさえすれば、いくらでもワイマール憲法の精神に反した法律を政府の名において制定し、完全な独裁を実現できる。その結果、ヒトラーの野望の実現を果たすことが可能となる。
◆連立でようやく過半数がとれた総選挙結果
ところが、ヒトラーは国会での与党議員数が過半数に届かない少数与党状態だった。そこでヒンデンブルク大統領に直訴し、解散総選挙に打って出た。けれども、そうして行われた1933年3月5日の総選挙でもまた、ナチスは単独で過半数を取れなかった。国会放火事件の責任を負わされたドイツ共産党は国会議員が拘束されて実質的な活動ができず、他の野党も、50万人の突撃隊・5万人の親衛隊の実力行使による様ざまな妨害に遭ったにもかかわらず、である。連立を組むドイツ国家人民党とあわせてようやく過半数を確保できる状態だった。
完全比例代表制の総選挙にもとづく議会の構成647議席の内訳は、以下のとおりである(※)。
(与党)340議席
国家社会主義ドイツ労働者党 288議席(得票率43.91%)
ドイツ国家人民党 52議席(得票率 7.97%)
(野党)307議席
ドイツ社会民主党 120議席(得票率18.25%)
ドイツ共産党 81議席(得票率12.32%)
中央党 74議席(得票率11.25%)
バイエルン人民党 18議席(得票率 2.73%)
その他 24議席
◆全権委任法を成立させるために捻じ曲げられた憲法解釈
一応、議会の安定は手に入れたものの、ヒトラーには次なる高いハードルがあった。憲法の実質的な「改正」となる全権委任法の成立には、国会での議決の際、出席議員の3分の2以上の賛成が必要だったのである。ヒトラーには、出席する国会議員の母数を減らすという戦術しかなかった。
石田勇治教授によると、国会放火事件の主犯格だと決めつけられたドイツ共産党の国会議員の拘束は、このための布石だった。それでも他の野党が採決の欠席という戦術を取れば、条件をクリアできない。そこで、採決当日、議院運営規則を変更し「議長の認めない理由で欠席する議員は「出席」とみなすという姑息な手段を取った」のである(石田・長谷部2017、66頁)。つまり、憲法の「出席議員」という条文の解釈を恣意的に捻じ曲げ、国会議員の意志を踏みにじる暴挙に出たのだ。
ヒトラーがこうした権謀術策を用い、ようやく成立させたのが「全権委任法」だったのだ。だから、ナチスが国民からの圧倒的な支持を得て独裁を実現したという俗説は、完全な間違いなのである。
◆憲法の大統領緊急令こそが、全権委任法成立の後押しとなった
こうした全権委任法の成立プロセスから浮き彫りになるのは、大統領緊急令が出されていなければ、野党の議員は不当に扱われなかったであろうこと、それゆえに全権委任法の成立は不可能であったという事実である。それでも、野党より33議席だけ多いに過ぎない与党が全権委任法を成立させることができたのは、大統領緊急令により、野党議員を拘束したり、選挙妨害をしたりするのが可能だったからである。つまり、恣意的に運用されていたとはいえ、憲法に規定された緊急事態条項こそが全権委任法の成立を後押しした、という事実は否めないのだ。
それだけではない。憲法改正の採決には出席議員の3分の2以上の賛成が必要だという条項が、恣意的に運用されたのも見逃せない。法治国家において、法が恣意的に運用され、権力者によって理念を捻じ曲げられるという状況が、いかに致命的な結果を招くかという事実が、浮き彫りになるからである。
ヒトラーは、こうして、手に入れた権力を最大限に使った陰謀ともいいうる手口で、憲法を超越する非常事態法規を、憲法規定の「改正」によらない一般法の成立という形で実現したのだ。
【注】
(※)総選挙の結果は、Wikipediaの「1933年3月ドイツ国会選挙」(https://ja.wikipedia.org/wiki/1933年3月ドイツ国会選挙)より引用(最終閲覧日2020年5月5日)。
【引用・参考文献】
・長谷部恭男・石田勇治共著(2017)『ナチスの「手口」と緊急事態条項』集英社新書