◆コロナ問題と公害とに共通する行政の姿勢
昨日のブログで積み残した問題を、もう一度確認しておこう。なぜ日本の対策は、海外メディアに驚かれるほど、科学的なデータから推計される全体像、各地域の実像によらないものになってしまっているのだろう?
この問いの答えを推測するための手掛かりがある。公害被害にたいして行政が見せてきた姿勢にかんする歴史である。それは、端的にいえば、あわよくば被害者への補償を少なくしようとし、そのために被害を矮小化してみせようとして、被害の全体像の把握をサボタージュする、という姿勢である。この点を、水俣病、福島原発事故の2公害の経緯を辿りつつ探ってみたい。
◆水俣病における被害の過小評価
水俣病。だれもが一度は耳にしたことがあるこの公害は、教科書の中に出てくる戦後の悲しい歴史として、受け止められている。でも、実はまだ、水俣病事件は終わっていない。一説によると10万人以上ともいわれる潜在的な患者さんたちが、いまでも体調不良に苦しんでいる。
それほど被害が拡大してしまったのも、国がチッソ株式会社に排水の停止を命じたのがあまりにも遅かったからである。始めての患者が報告されたのは、1956年。停止命令が出たのは1968年。なんと、12年ものあいだ、有毒な排水が不知火海の島々のあいだをかけめぐる状況が、放置されていたのだ。
この一点だけでも国の責任は重大なのだけれども、驚くべきことに、いまだに一度も行政による悉皆調査が実施されていない。その理由として、潜在患者を掘り起こしてしまうと、行政権力への賠償圧力が高まり、二進も三進もいかなくなってしまうからではないか、と囁かれている。
わざと全体像の把握をサボタージュする。その結果、被害を小さく見せることが可能になる。そうすれば、補償も少なくて済む。そうした行政の意図が透けて見える。
◆福島原発公害における被害の矮小化
福島原発公害でも、行政の同じような意図が透けて見える。
事故発生直後から被曝実態を測定し、その推移を時系列でチェックしておかないと、将来的に健康被害が出現したとき、それが放射性物質由来なのかどうか、判断がつかなくなる。その意味をわかっていた医療者や研究者は、原発公害が発生した直後から被災地に入り、被ばく検査をしていた。みずからの被曝の可能性を顧みずに現地入りされた勇気には、ほんとうに頭が下がる。でも、そうした勇気ある人たちが、行政から「必要ない」と帰されてしまったこともまた、記憶に新しい。その結果、いま起こっているのは、被害者に健康問題が出ても、因果関係がわからないからという理由により、十分な補償がなされないまま捨て置かれている、という現実である。
福島原発公害は、水俣病と違い、原因企業の賠償責任があいまいなままである。それゆえ、原発事故の記憶が風化し、批判の声が小さくなるとともに、事業者に対する賠償額もどんどん減らされている。結果、多くの事業者が苦しんでいるにもかかわらず、そうした実態はほとんどニュースにもならない。
◆コロナ問題と公害問題との共通点――出し渋りのための被害の矮小化
このように、公害被害の歴史を辿ってみると、わざと全体像を把握しないまま放置し、被害を小さくみせ、できるだけ補償しないようにしたいという行政権力の姿勢が透けてみえてくるのだ。
新型コロナウイルス禍は、公害ではない。しかし、行政の要請により、我慢を強いられ、明日も見えずに苦しんでいる方がたが大勢いる。そのように行政の判断が人びとの受苦に影響しているにもかかわらず、対策が不十分である(補償を出し渋る)という点では、公害問題と構図が似ている。
そう、これが尾身副座長の言葉を聞いて〈やっぱり、ね〉と思った理由である。コロナ問題と公害とに、こういう似た構図があるなと感じていたからこそ、いくら国民や専門家が疫学調査をすべきだと声をあげても、被害の実像が思ったより大きい場合、賠償に困るという理由で、わざと市中感染の実態把握をサボタージュしているのではないか、と思ったのだ。
まさかそんな意図はないよね、と信じたい。思い違いの取り越し苦労であってほしい。疑念を払しょくし、みんなが納得できる科学的な根拠を入手できるようにするためにも、専門家会議には迅速な全体像の把握に努めてほしい。