今回の道路陥没事故を受けて、いろいろ考えているうちに、大深度地下を開発する公共事業と原子力政策とは、いくつかの点で共通する側面があるのではないかと思いついた。
なぜそう考えたのか、記してみたい。
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1、安全神話
原子力政策は、「日本の原発は安全です」「いざというときでも五重の防護があるので安全です」といった、「専門家」のふりまく「安全神話」のもと、推進されてきた。
それに異を唱える科学者、たとえば京都大学原子炉実験所の熊取6人衆のみなさんは、学術の世界では干され続けてきた。
そうして異論が排除され、原発の安全性は、問うてはならない事項となった。
その結果、原発=安全という、科学・技術上の論争で触れてはならぬ聖域が出来上がってしまい、大小のさまざまな事故が起こってもなお原発の安全性が問題視されることなく、福島第一原発事故という最悪の結末を迎えてしまった。
外環道のトンネルを掘り進めるためのシールド工法もまた、これまでたくさんの事故を起こしているにもかかわらず、世界に誇る安全性といった類のスローガンによって美化されている。
だからなのか、昨日の拙ブログ記事で紹介した地域の方が、意見陳述書で指摘されているように、「東京都環境影響評価審議会」では、外環道の工事で起こりうる過去の事故の検証がなされた形跡もない。
このように、大深度地下を開発する公共事業と原子力政策とは、安全性が過度に強調される安全神話を伴っている点で、共通している。
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2、似ている法体系
大深度地下を開発する公共事業と原子力政策とは、法体系の点でも酷似している。
福島第一原発事故が起こってから、びっくりしたことがある。
それは、事故を起こした事業者の責任が有限で、法律によっては責任を問われない法体系になっていた、という事実である。
「大気汚染防止法」も「水質汚濁防止法」も「環境影響評価法」も、放射性物質による汚染には適用されないようになっていた。3・11以降、さすがにそれはまずいということで、該当部分の条項は改正された。
「原子力賠償法」では、人類が直面したことのないような大規模災害等では、事業者が免責されることになっていた。
一方、外環道のトンネル工事の裏付けとなる「大深度地下利用法」では、地下40メートルよりも深い場所での開発に、地上の地権者は口出しができないと定められてしまっている。
つまり、地下40メートルよりも深い場所の開発の場合、地権者には利用料などの権利が発生しないどころか、陥没などの事故が起こったとしても、なんら保障がない、という仕組みになっているのだ。
憲法で定められた、生存権、居住の自由の重大な侵害ではないだろうか。
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3、無責任の体系
原発もシールド工法も安全なはずなのに、なぜか事業者側が保護される法体系になっている。
でも、実際には、原発事故は起きてしまった。
シールド工法も、昨日紹介した意見陳述書での、地域の方の指摘によれば、安全性にかなりの疑問符が付く。
こうした状況に照らして穿った見方をすれば、事業を推進する国は、本当は安全だとは言い切れないとわかっているから、何か問題が起きてしまう前に、事業者側が免責されるようにしておこうと考え、それに沿った法律を制定してきたのではないかと疑いたくなる。
それが勘ぐりすぎだとしても、大深度地下を開発する公共事業の法体系は、現に、住民の生活やいのちが後回しにされるつくりになっている。
事業者側の責任が問われにくい法体系になっている。
まるで、丸山眞男が指摘した「無責任の体系」の現代版のようだ。
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4、生活やいのちに直結する科学
以上が、大深度地下を開発する公共事業と原子力政策とに共通すると思った3つの側面である。
それだけではない。こうした公共事業の負の三側面は、私たちの生活やいのちの危機に直結する危険性をはらんでもいる。
3・11福島第一原発事故は、私たちに、学術上の自由な論争が抑圧され、一方の意見によって神話が形成されたら、生活に甚大な影響が出かねないのだという現実を教えてくれた。
関連して、チッソ水俣工場のなかに、技術者が自由に議論できる土壌があったら、水俣病は防げていたはずだった(弊ブログ2020年6月22日付記事【コロナ問題と公害との共通性7】)。
多様な科学的意見を闘わせ、よりよい方向性を、真理を見出していく学術の世界。
ふだん、なんとなく遠い世界にあるような気もするけれど、科学のその営みを抑圧し、一方の側の意見だけを技術や政策に応用したら、実は、私たちの生活やいのちの危機に直結する。
それを教えてくれたのが、公害であり、福島第一原発事故だった。
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5、学問の自由の重要性
だからこそ、安全神話を伴い、住民軽視の法体系になっているという点で原子力政策と共通する外環道の地下トンネル工事が、同じことを繰り返すような結果になってはならないし、同じような結果にしてもいけない。
では、どうすればいいのか?
私は、事業計画が立てられる段階からの、立場を超えた自由な議論こそが、様々な角度からの検証を可能にし、ひいては、私たちの生活やいのちを守ることにつながると思うのだ。
このとき、議論の場に集まるのが、専業の研究者だけになってはいけない。
議論の場には、意見陳述書を書かれた方のように綿密な調査をされている市民の方がたにも、とくにそんなことはしていないけど「ひとこと言いたい!」という市民の方がたにも加わってもらわなければならない。
実行に移されることになっても、なにかあったらいつでも検証が可能なしくみをつくらなければならない。
そのために、学問の自由は絶対に守られないといけない。
文系・理系を問わず、多くの学会が学術会議会員の任命拒否を問題視する理由も、ここにある。