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1、日本学術会議の任命拒否問題
この問題の本質はいろいろあるけれども、とくに重要なのは、国会で議論されていない、内閣と日本学術会議事務局との内輪のやり取りだけで変更された法解釈による任命拒否が有効なのか、それはそもそも違法なのではないかという点である。
しかし、この争点をずらすための声が、この2か月のあいだ、やけに喧しい。
行革担当大臣は、日本学術会議の年間10億円の予算が行革の対象だと言い出した(※1)。でも、学術会議委員を経験された方の話だと、年度の後半には旅費も自腹で出さないといけないくらい、予算不足らしい。そんな学術会議などよりもむしろ、官僚の天下り先となっているにもかかわらず、予算が国会で審議すらされず、活動の実態がわからない特殊法人が多数むらがる特別会計にこそ、メスを入れるべきではないのか(※2)?
予算が高いという印象操作と争点ずらしだけではない。軍事研究を受け入れないのなら行政組織から外れるべきだという元文科大臣の発言まで飛び出した(※3)。そういう周囲からの圧力にくわえ、現職の科学技術担当大臣までもが、学術会議にたいして「デュアルユース(軍事・民生の両方に転用できる技術)」の研究・開発を再検討しろと揺さぶりを始めている(※4)。
こうした動きをみていて思うのだ。研究のありかたが、ときの権力の一存で簡単に変えられてしまってもいいのか、と。アカデミズムの世界が軍事と距離を置くのには、人類の進歩にとっての、深い意味があるのではなかったのか、と。
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2、無と禍根をもたらす破壊
軍事力は、破壊をもたらす。人間や動植物の〈いのち〉そのもの、そして人間や動植物が暮らす環境の、徹底的な破壊を。
そして、破壊された空間を覆いつくすのは、無である。破壊された我が家、焦土となった街、薬剤によって枯れ果てた森、無気力、無感動、大切なひとを失った、守れなかったという無念・・・。
それだけではない。こうしてもたらされた無は、無を強制された側の人びとの心に、禍根を生む。
本来ならば憎しみ合う必要のなかった人と人との間に、激しい恨みをもたらす。
そうした恨みは、無を強制した側の社会へ、人間へと向かう。
最悪の場合、この恨みは、無を強制した側の人間たちが忘れたころに、無差別テロ等の形となって噴出する。そうして、あらたな怨恨が生み出される。
このように、軍事力による破壊がつくりだした無は、無のなかに芽生えた怨恨による負の連鎖を世界各地にもたらし、時代を暗黒面へと反転させる。
だから、軍事力による破壊は、破壊された側の、破壊した側への無の渇望という無限ループを生み出し得ても、持続可能で安定した未来への夢や希望を紡ぐことはできない。
ゆえに、軍事力の行使は、人びとが生きる明日へとつながる創造力を、一切もちえないのである。
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3、高度成長が軍事力行使を肯定できない理由
もちろん、無からあらゆるものが創造される場合がないわけではない。
たとえば、隕石の落下による生き物の大絶滅後の地球では、生命の大進化が起こった。
恐竜が絶滅したあと、哺乳類の時代へと移行していったように。
けれどもそれは、人間が抗うことのできない、自然の摂理のなかで起こった歴史的な出来事である。
一方、軍事力による破壊とその結果としての無は、人災である。ほんらいならば、人類の英知を結集し、避けられ得たはずの歴史的な出来事である。
それでも、戦後の西欧や日本のように、焦土の無のなかから人びとが立ち上がり、人類史に類例のない高度成長をとげた実例もある。しかしそれは、破壊によって巨万の富を得た米国の支援があったからこそ可能だった奇跡である。
自国で武器をつくる経済力をもたない「小」国が、経済「大」国によっていびられる戦争しか起こっていない現代では、なにもかも破壊されつくした「小」国が経済「大」国の仲間入りを果たした実例は存在しない。
だから、高度成長と同様の奇跡が今後も起こる保証など、どこにもない。
それゆえ、高度成長が軍事力の行使を正当化する理由には、なりえない。
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4、科学の使命
水、鉱物、石油、ガスといった資源をめぐる対立。宗教上の対立。
世界各地で、紛争が起こっている。
それらはもちろん、一刻もはやく解決されるべきである。
しかし、そうした紛争はたいてい、公平な配分がされていない現状や、経済「大」国が帝国主義の時代につくった社会制度や国境などの負の遺産による対立が、問題の発端となっている。
そうであるなら、相手の生・文化・環境を否定して破壊するよりも、いまある暮らしを互いに尊重して生かしつつ、そこにあらたな技術や文化を加え、より豊かな生を享受する方向で未来を創っていくのが、誰にとっても最善の道のはずである。
科学は、その道筋の光を照らすためにこそある。
人びとの暮らしの向上をなしとげ、人びとに笑顔をもたらし、人びとの希望をつくること。そのために、いかに文句を浴びせられようとも、社会や自然を観察しながら、あらゆる知や事実をあつめ、先人の残してくれた知見をふまえつつ、様々な可能性を考究し、真理を探求し続けること。そのために、過去を反省し、現在を客観視したうえで、未来を創造すること。
これこそが、科学の使命である。
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5、神ではない人間に、審判はできない
この世に暮らす誰であろうとも、他者の暮らしを破壊する権利など持ち合わせていない。
ましてや、他者を無の悲しみの淵においてよいという審判など、だれにも下せようはずがない。
人間は、神ではないのだから。
それゆえ科学者は、罪も恨みもない人びとの〈いのち〉を、動物や植物といった自然の存在を、とことん破壊し尽くす軍事技術の開発に、手を貸すことはできない。
軍事力を効率よく行使するための社会制度づくり、スローガンづくりに手を貸すこともできない。
それをやってのけ、科学者を戦争へと総動員したのが、戦前のわが国の姿だった。
日本学術会議は、その反省のうえにたち、同じ過ちを繰り返さないと3度にわたって誓いを立てた。
だからこそ、人びとの幸せを願って研究を続ける科学者が、ときの権力によってその意向を捻じ曲げられ、他者の無の「創造」に駆り立てられようとしている昨今の事態は、きわめて異常なのである。
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【注】
(※1)「予算10億円の日本学術会議は行革対象、1兆円の辺野古基地建設はスルー。異論排除、独裁的体質の菅政権」『ハーバービジネス・オンライン』2020年10月13日付記事(https://hbol.jp/230192)。
(※2)故・石井紘基元衆院議員の著書は、一読に値する。『日本を喰いつくす寄生虫 特殊法人・公益法人を全廃せよ!』(道出版・2001年)など。1990年代後半から2000年代にかけて報じられていたこれらの問題が、最近では一切報じられなくなったのはなぜなのか。『相棒』(テレビ朝日系列)では、時折この問題に焦点が当てられているのだけれど。
(※3)「『軍事研究否定なら、行政機関から外れるべきだ』 自民・下村博文氏、学術会議巡り」『毎日新聞』2020年11月10日付記事(https://mainichi.jp/articles/20201110/k00/00m/010/023000c)。
(※4)「軍民両用研究、学術会議に検討要請 井上担当相 組織見直し論絡め揺さぶり」『東京新聞』2020年11月19日付記事(https://www.tokyo-np.co.jp/article/69273)。デュアルユースという言葉は、最近では、どんな技術でも軍民共用になりうるし、それは自然なことなのだから、軍事技術に反対するのはおかしいといった意味合いで使われている。けれども、それは重大な事実誤認である。この言葉はそもそも、軍事予算を削減していったクリントン政権が、軍事研究を一般の研究機関にも広げるための隠れ蓑として編み出した言葉である(その詳細については後日)。この事例に関わらず、きちんとした事実から議論を出発させず、ときにフェイクニュースすら盾に使い権力者の意向が押し通される事例が近年散見されるが、こうした議論の進め方は、国の未来をよくない方向へと導くのではないかと心配で仕方がない。
(2020年12月9日一部修正)