~~~~~
阪神淡路大震災が発生してから26年目の本日、亡くなられた方がたに哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。
阪神淡路大震災が発生した1995年1月17日。私は高校1年生でした。前日に16歳になったばかりでした。
昔ながらの木造家屋がひしめく長田地区で広がった火災のテレビ画像にくぎ付けになりながら、なんとか一人でも多くの人に助かってほしいと祈っていたのを、昨日のことのように思い出します。
担任の先生が、たいへんなことが起こったけれど、私たちはふつうの暮らしをしていかなければならない、と言っていたのを思い出します。教室のなかには、重苦しい空気が垂れ込めていました。
何もできない自分を恥じました。まだ高校1年生で、現地に行くお金すら持っていない自分を悔やみました。
~~~~~
それから5年後の、2000年3月31日。
北海道の有珠山が噴火し、1万人以上の方がたが避難しました。
1990年の雲仙普賢岳の噴火とその後の惨状、1993年の奥尻島の津波襲来とその後の火災、そして1995年の阪神淡路大震災と、テレビ画面にくぎ付けになりながらも、祈ることのほかは何もできずに悔しい思いをしていたからなのか、自分でもわからないのですが、アルバイトをして軍資金を稼ぎ、北海道に飛び立ちました。
そこで出会った方のなかには、同じように、あのとき何もできなかったという思いの方がたくさんおられました。
それからさらに4年後の2004年10月23日。阪神淡路大震災以来の震度7を記録した新潟中越地震が発生しました。このときは、阪神淡路大震災の被災地から比較的近かったこともあって、あのとき何もできなかったという思いの方がたに加えて、恩返しがしたいからと、阪神淡路大震災の被災地域から駆けつけてこられた方が大勢いらっしゃいました。
~~~~~
災害が起こったら、どんな被災地でも、ボランティアさんたちが駆け付けるのが当たり前になっています。そこでは、あのとき助けてもらったから、という、あたたかいつながりの連鎖が起こっているように思います。
でも、ボランティア活動に参加してみて思うのは、ボランティアの力だけでは、被災地の復興は成し遂げられないという現実です。どうしても、助け合いの究極体である国の支援が欠かせません。
しかし、阪神淡路大震災が起こって以降、目のあたりにしてきたのは、災害ファシズムでした。災害を機に、それまで成し遂げられなかった都市開発をしよう、大型公共事業をしよう、という、被災者に寄り添っているとはいえない利権の発動でした。
阪神淡路大震災が起こって以降、神戸市では、都市開発された地域の人たちが長年培ってきたコミュニティが崩壊しました。地域で暮らしてきた人びとは、各地の復興住宅へとバラバラにされてしまいました。2018年の時点で、『毎日新聞』は、そうした方がたの孤独死が1000人を超えたと報道しています。
~~~~~
2011年3月11日に東日本大震災が発生してから、もうすぐで10年を迎えます。
東日本大震災にかんしては、同時に発生した原発事故もまた、福島で被災された方がたに、いまだに重くのしかかっています。その結果、ふるさとに帰れない現実を苦にした震災関連死者数(自殺された方の数)が増加しています。
2010年代からは、毎年のように、豪雨災害も発生するようになりました。
阪神淡路大震災から四半世紀以上の時を経てもなお、災害へ遭遇したとたん、悲しい気持ちのままで暮らさざるを得なくなる状況が続いているのです。
災害に見舞われたあと、被災された方がたが一日でも早く笑顔になれるような社会のあり方を、本気で考えるべきときが来ているように思えてなりません。
微力ではありますが、弊ブログでは、これからも、災害から考えたことを発信していきたいと思います。
~~~~~
【参考記事】
・「阪神大震災 兵庫・復興住宅、『孤独死』昨年64人、累計1027人に」(『毎日新聞』2018年1月11日付記事)https://mainichi.jp/articles/20180111/ddn/041/040/008000c