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1、差別
新型コロナウイルスのパンデミックは、過去の類似している歴史と対比する形でよく語られる。
たとえば、世界のいたるところで生じている、感染者にたいする差別の問題は、ペストが流行ったときのヨーロッパ中世との対比で語られることが多い。
ペストが流行っているのに、ユダヤ人のコミュニティでは感染者や死者が少ないという事実は、ユダヤ人がなにか悪いものをばらまいているのではないかという疑心暗鬼を巻き起こした。その結果、ユダヤ人を悲劇が襲った。
本当は、ペストを運んでくるネズミをユダヤ人の飼っている猫が駆除してくれるから、ユダヤ人のコミュニティでは感染が抑えられていた、というのが正解だった。
しかし、死亡率が3割ともいわれたペストへの恐怖にかられた人々が行ったのは、犯人探しという名の差別と殺戮だった。
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2、発生源
ほかに、ウイルスの発生源について責任を擦りつけ合う国家間の姿も似ている。
新型コロナウイルスの発生源は、中国の武漢だという説、イタリアなのではないかという説、いやアメリカこそが発生源だとする説など、いろいろある。
この問題は、おそらく、数十年の時を経なければ、終焉を迎えられないだろう。
このような状況を目の当たりにしたとき、思い出されるのが、100年ほど前に世界中を震撼させた新型ウイルス、スペイン風邪(インフルエンザウイルス)である。しかし、この名前は、スペインにとっては、とんだとばっちりだった。
当時、世界は第一次世界大戦で揺れていた。自国軍の兵士が、未知のウイルスでバッタバッタと倒れていっている事実は、参戦している国にとって戦力の低下を意味するから、最高の軍事機密だった。スペインが未知のウイルスに言及し発信できたのは、第1次世界大戦のなかで中立を保っていたからこそであった。
しかし、その結果、スペインにとっては事実に反する、不名誉な「スペイン風邪」という名称が定着してしまった。本当は、アメリカこそが、パンデミックの発生源だったにもかかわらず。
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3、日本のなかでの歴史上の類似点
一考に収まる気配のないパンデミックの渦中にあって、私の心のなかでは、後手後手に回っている政府のコロナ禍への対応が、アジア太平洋戦争中の政府の対応と類似しているのではないか、という懸念がふつふつと高まっている。たとえば・・・
・十分な補償を与えない=十分な装備を与えない
・にもかかわらず、なんとか不十分な補償(装備)でもちこたえよ、という精神論
・従えないなら厳罰に処す(憲兵に連れていかれる)
戦時中の状況と、コロナ禍の現在とを客観視してみると、少なくとも以上のような類似点がある。
問題は、戦時中の状況は歴史として語るだけで済むけれども、コロナ禍の現在は、パンデミックを何とか抑えなければ、私たち自身の〈いのち〉が閉ざされ、生活が崩壊しかねない、という点だ。
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4、過去は未来を切り拓くための鏡
こういう不安を感じているためか、いま自主ゼミで読んでいる苅谷剛彦さん・吉見俊哉さんの対談書『大学はもう死んでいる? トップユニバーシティからの問題提起』(集英社新書、2020年)という本の一節に、かなり共感する部分をみつけた。
「私たちは歴史の客体であると同時に主体です。ですから、私たち自身が過去を学び、その中から未来を現在の延長とは違うかたちで想像できるわけです。そうやって歴史的な存在であり続けようとするならば、我々は、過去に語られてきたことと自分の関係を対話的に思考し、未来を創造していくことにつなぐ道が開けます。」(苅谷・吉見2020、160頁)
この文章を読んだとき、〈そうか、過去と現在との歴史の対比で似た部分をみつける学びは、今を生きる主体として、違った未来を創っていくことにつなげられるんだ!〉と、勇気をもらった気がしたのだ。
では、戦時中の日本と現在の日本との、どういったところが似ていると思うのか。似ているとしたら、同じような破滅という結末に至らぬよう、何を欲し、何を創っていかなければならないのか。その具体的な中身については、明日から何回かにわたって記していきたい。
(追記)分かりにくい表現を一部修正しました(2021年2月4日)