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3月11日を前後して、被災された方がたのいろいろな思いが、テレビで紹介されました。
地震が襲ってきた直後に実行すべき「津波てんでんこ」という言い伝えを、中学生たちが実行して多くのいのちを救ったと賞賛されてきた「釜石の軌跡」。テレビを見ていると、当時中学生で釜石の軌跡の主役だった方が、私たちはそんなに褒められた避難はしていない、と苦しい胸の内を吐露されていらっしゃいました。
戸倉小学校の「奇跡」という日記をUPした私は、この方の思いを拝聴して、このようなタイトルで記事をUPして良かったのだろうかと、思い悩みました。そうこうするうちに5日が過ぎてしまいました。
悩んだ理由は、日記の続きが、大川小学校の悲劇から考えたことである点も関係しています。
この間、いろいろな情報に触れることで、たいせつなお子様をなくされたご遺族、生き残られたこどもたち、先生、地域の方、それぞれにいろいろな思いがあることを知りました。何かを書けば、誰かが傷ついてしまう、本当にそれでいいのだろうか。悩みました。
ですが、やはり、同じような悲しい出来事が、二度と繰り返されぬよう、改善されるべきことがあるのではないか、という思いがどうしてもぬぐえませんでした。
そこで、今日から続きをUPさせて頂くことにいたしました。どうかご容赦ください。
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1、戸倉小学校に奇跡がもたらされた理由
戸倉小学校と保育園のこどもたちが全員助かったのは、何よりも、近い将来を見越した、民主的な議論が職員会議でなされたことが、いちばんおおきな理由だったんだと思う。
戸倉小学校の先生たちは、地震が起こってからすぐ、津波を想定した避難訓練を行うべく、職員会議を行った。そこでは、校舎の高さ、地域の地形、どうすれば子どもたちを安全に避難させられるか、といったいろいろなことが話し合われたに違いない。
そして、規定通り学校の屋上に避難するよりも、裏山にある高台の方が安全だという決断を職員会議は下し、校長先生もそれを尊重されたのだと思う。
このような予想が当たっているとすると、そうした議論により出された結論には、たとえ避難場所の規定を覆すことになろうとも、子どもたちのいのちは絶対まもる、いざとなったら責任はうちらがとる、という先生がたの気概が感じられて、なんだか嬉しくなる。
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2、大川小学校の悲劇
門柱だけ残っている戸倉小学校跡地の前に立ち、避難の奇跡のお話を浅野教授に伺いながら、私はどうしても、大川小学校の悲劇を思い出さずにはいられなかった。
『河北新報』が2018年に組んだ特集記事「<止まった刻 検証・大川小事故>」によると、地震が起こった直後、大川小学校のこどもたちは校庭に集められた。
校長先生はお子さんの卒業式に出席するため不在で、教頭先生と教務主任の先生が判断を下さないといけなかった。そこに地区長さんも加わり、議論は延々40分ほど続いた。その間、教務主任の先生は、校舎の屋根へ避難できればとカギを探したり(地震で散らかっていて断念)するため、校舎内と校庭とを行き来し、議論の場にずっといたわけではなかった。
ようやく決まった避難先は、北上川の堤防で高くなっている三角地帯だった。
そして、三角地帯に向かって避難していた教職員、こどもたちのところへ、津波が襲来。
教職員10名、大川小学校のこどもたち74名の尊いいのちが失われた。
https://kahoku.news/articles/20180112kho000000010000c.html
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3、なぜ大川小学校の悲劇は起こったのか1――地区の歴史と不十分な防災計画
なぜ、このような悲しいできごとが起こってしまったのだろうか。
『河北新報』の特集記事は本にもなっているらしく、そちらもぜひ読んでみたいのだけれど、調べた範囲内でわかった理由をいくつか記しておきたい。
まず、大川小学校がある鎌谷地区は、海から3キロ以上内陸にあるため、過去に津波がきたときの被害がそれほどひどくなかったという歴史的な要因があった。そのため、地区の方たちには、津波が来るという意識はあまりなかったのだという。そうした先入観が、海と隣り合わせだった戸倉小学校と違い、先生や地区長さんたちの判断を鈍らせてしまった可能性は否定できない。
次に、不十分な避難計画の存在があげられる。避難計画では、大川小学校が地域の避難場所になっていて、より大きな津波が想定された場合のさらなる避難場所が、設定されていなかった。
戸倉小学校のように、3日前の地震でもしも見直しがなされていたら、あるいは・・・と思うと、胸が苦しくなってくる。